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1943年冬の東部戦線での撮影。
砲塔のシュルツェンのみで車体側面のシュルツェンを装着していない状態のH、J型は、四号戦車の造形?として最もバランスのよい形体に見える。
私はそう感じてしまうのだが・・・

IV号戦車H型は1943年4月から生産が始まり、1944年7月までに3,774両が生産されたが、この次期新型主力戦車パンターの量産が軌道に乗っていたが、IV号戦車の生産ラインをパンターに切り替える時間的余裕はなく、切迫する戦況に生産が続けられた。

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フンメルの30口径15cm重榴弾砲sFH18の砲弾。
分離薬莢式の砲弾で、弾種はHE(榴弾)のGr.19と、AP(徹甲弾)のGr.19Hl/Aの二種類があった。
写真はGr.19。
通常6個の装薬を距離に応じて調整して使用した。
指揮官の判断で特別に8番装薬まで用いて発射した場合、砲口初速495m/秒、最大射程は13,250m。

この重榴弾砲は10.5cm leFH 18と共にドイツ陸軍と武装親衛隊の師団砲兵に装備された主力榴弾砲だが、車軸にサスペンションが無く移動速度が遅く、また泥濘地や積雪状態では機甲部隊に追随することが出来なかったがフンメルに搭載されようやく随伴が可能になった。

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軟弱地盤にめり込んで動けなくなって放棄されたようだ。
前部が上がっているのでローギアでエンジンをふかして何とか脱出を試みたのだろう。
戦闘が終わり平和を取り戻し、脇の夫婦と思われるカップルが記念撮影といったところか。

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ラインメタル社の傘下にあったスイスのゾロターン社が開発した対戦車ライフル。
装甲貫徹力は距離100m、撃角60度で20mmの装甲を貫通した。
大戦が始まり戦車の装甲が厚くなると、対戦車ライフル自体が陳腐化してしまうが、重機や軽機にはない迫力がある。
兵器の持つ凄みを感じさせる。

口径:20ミリ
重量:45 kg (マガジン無し)
全長:176 cm
銃身長:92.5 cm
弾丸 20×105mm
作動方式 セミオートマチック
初速 735 m/s 徹甲弾
装填方式 10発ボックスマガジン

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酷寒の中での戦車兵の表情が印象的だ。
1941年のロシアで冬将軍に見舞われた次期の撮影。
車種は三号戦車G~J型のいずれかと思われる。

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インド人義勇兵を視察するロンメル

汗を流せ、血を流すな。
まず人の犠牲を最小限にするための努力をせよというロンメルの言葉。


    
you tube Panzer rollen in Afrika vor 初音ミク

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整備成ったティーガーⅠ初期型。
真新しいダークイエローの塗装が予備キャタピラにもそのまま塗られている。
車体前面装甲には砲弾をはじき返した凹みが数ヶ所見える。
砲塔には第505重戦車大隊所属を示す馬上の騎士が描かれている。

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パンターG型とそのクルー。
左端の戦車兵、キューピーのような見事な禿である。

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パンツァージャケットを着用している。
ドイツ軍女性戦車兵?
写真のキャプションはPanzer 20Womanのみ。
詳細不明。

オーロラモデルに1/35でドイツ軍の架空女性戦車兵が販売されているが、あくまで架空のフィギュア模型。

この写真が単にプロパガンダとして撮影されたもなのか本当に女性戦車兵が存在したのか分からないが。



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ドイツ空軍の対戦車攻撃機では、ヘンシェル Hs129やユンカースJu87G「スツーカ」がある。
「戦車撃破王」として有名なハンス・ウルリッヒ・ルーデルだが、戦後アメリカの対地攻撃機A-10の開発にあたってフェアチャイルド・パブリック社が彼を顧問に招いている。
A-10にはルーデルの貴重な体験に基づいた設計が盛り込まれている。
またA-10の開発担当者たちは、彼の著作は必読書とされたという。


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マズルブレーキ側面開口部の塗装の剥げ方が模型製作の参考になりそう。
白黒写真なのでよく分からないが、相当数発砲しているだろうから、マズルブレーキと砲身は恐らく薄っすらと黒ずんでいるのだろう。
マズルブレーキ内側は磨かれて鉄のシルバーがピカピカしているように見える。
常に戦闘可能な状態を保つ為にメンテナンスがしっかりしているからだろうか。
パンターA型の群れのようである。

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渡河しきれずに放置されたパンターD回収型。
背後に記念撮影するかのようにソビエト兵が集まっている。

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取り外されたマイバッハHL210-P45エンジン。
大重量のティーガーを動かすには、このエンジンでは負荷が多く走行500~700キロでオーバーホールしなければならなかった。
ティーガー伝説も整備兵の地道な努力があって生まれた。
戦は補給や整備など後方部隊の活躍があってはじめて成立するものであり、ビットマンやカリウス、クニスペルの活躍の陰に整備兵たちの努力があったことを忘れてはならない。
エンジンを吊り上げるクレーントラックはビルシュタイン製の6tクレーンを搭載したビューシングNAG4500-1である。

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撃破したT34を遮蔽物として、脇の窪みを陣地としている。
まるでジオラマの一場面のようである。

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ドイツ女子同盟   Bund Deutscher Mädel

ヒトラーユーゲントの女子版組織。
訳語は一定しておらず、ドイツ少女団、ドイツ処女団、ドイツ女子団とも訳されているようだ。
1930年に発足し、終戦まで存在した。
若年未婚の女子で、ドイツ民族の血統に属していることが入団の資格だった。
ドイツの将来を担う良妻賢母の育成が理念とされたが、従軍看護婦としての訓練や式典に備えて軍歌の練習も行われた。

youTube Bund Deutscher Mädel

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Sturmhaubitze 42, StuH 42

3号突撃砲の車体に105ミリ榴弾砲を搭載したトーチカ攻撃用に開発された突撃砲。
1941年11月のレニングラード戦投入以来、通常の突撃砲に対し約3割の割合で配備された。
総生産数は1212輌。
前線での評価は高く、共に戦った歩兵からは10.5cm StuH 42は絶対に必要との報告がされていたという。
後期生産タイプでは、マズルブレーキは無くても問題ないとの運用結果から取り付けられていない。

you tube Sturmhaubitze 42映像

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オストヴァルトゥルム(Ostwallturm 東方の壁砲塔)

コンクリートのトーチカ上にパンターの砲塔だけを置いた固定砲台。
トーチカ部分は地中に埋めるため、低姿勢となった砲塔の発見は困難であった。
イタリアで1基のオストヴァルトゥルムと対峙した英軍は戦車10両を撃破されたという。
トーチカ内には砲塔回転用のモーターが搭載されておりモーター駆動で砲塔が回転した。
乗員用の簡単な居住施設(ストーブ付き)も内部に設けられていた。
上面装甲は榴弾砲の砲撃にも耐えられるように40ミリに強化されていた。

*参考写真

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カール・マイバッハ Karl maybach

マイバッハエンジンの技術者、経営者。
彼の父ウィルヘルム・マイバッハ(Wilhelm Maybach)はツェッペリン飛行船のエンジンを設計製造するエンジン製作会社を経営していた。
父ウィルヘルムの死後、カールは会社を受け継ぎ航空機エンジンの他に戦車や船舶など様々なエンジンを設計製造する会社に成長させた。
第二次世界大戦中のドイツ軍戦車のほぼ全てがマイバッハ社製のエンジンを搭載していた。
戦後1952年にカール・マイバッハは引退し、会社はダイムラー・ベンツ社の傘下に入った。
マイバッハエンジンは現在でもドイツの高級車に搭載され、そのDNAは脈々と生きている。
2002年ダイムラークライスラー社の高級ブランド名として、マイバッハの名を冠したベンツマイバッハが発売されている。

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燃料輸送列車からドラム缶とジェリカンに燃料を移す作業を行っている。
東部戦線におけるドイツ軍の補給物資の輸送は大変な労力を要した。
一個機甲師団の一日の燃料補給は約300トンが必要とされ、10日間の作戦行動のためには3.000トンの燃料が必要になる。
歩兵師団には一日70トンが割り当てられていたという。
バルバロッサ作戦開始時のドイツ軍は144個師団、350万の兵力を有していた。
これらの部隊へ毎日補給するのだからとてつもない労力だ。
補給物資は鉄道が通っている主要地点までは鉄道輸送され、後はトラック輸送となる。
ドイツとロシアでは鉄道軌間の規格が違うため、軌間変更作業
が行われたが、ポーランド国境側から合計距離300マイル程度改修されたのみで前線は遥か先であった。
ドイツから鉄道輸送された物資は途中でロシアの鉄道規格にあった列車に物資を積み替える作業も必要だった。
東部戦線の補給は、ドイツ規格の鉄道→ロシア規格の鉄道→輸送トラックあるいは馬車という手順で行われていた。

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Drachenzaehne ドラッヘンツァーン(龍の歯)。
ジークフリートラインに設けられた対戦車障害物。
四角錐形の鉄筋コンクリートブロック群だが、まるで龍の歯のような形状のため、このような名称がつけられた。
平均的な高さは約1.2メートル。
フランス軍のシャールB.1bis や ルノー FT.17などを対象として設置されていたため、終戦間際の連合軍の戦車にはあまり役にたたなかった。
ジークフリートラインはトート機関によって、1938年から1939年までの短期間の建造だったため、マジノラインのような本格要塞とはかなり見劣りがするものだった。

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ミハエル・ヴィットマン  Michael Wittmann

ティーガーエースとして日本では有名な武装親衛隊員。
本国のドイツでは親衛隊員という理由から、あまり知られていないという。
彼の輝かしい功績は偏に、「問題解決までのねばり」にある。
強力な敵に対して、単独であろうとも執拗に攻撃を繰り返し、敵の意図を挫くまで戦う精神が、彼に素晴しい戦功をもたらした。
彼の遺骨は、1983年道路工事中に発見され、現在はラ・カンプのドイツ軍戦没者墓地に埋葬されている。
ところで、マリナーズのイチローは、彼に風貌が似ていると思うのだが。
ヴィットマンとイチローは、共に大記録を打ち立てた人物だが、生き方、仕事への姿勢には共通点が多いように思える。

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戦闘終了後、放棄され子供たちの遊び場となったヤークトティーガー(Jagdtiger)Sd.Kfz.186。
日本人の戦争体験者は、戦争に纏わるものというとB-29という印象が強いようだが、ヨーロッパでは「戦車」という印象らしい。
バルカンクロイツのマークをつけたドイツ軍の戦車は、ヨーロッパ中を蹂躙し、「恐怖のナチスの軍隊」の象徴的存在だった。
遊ぶ子供たちにとってヤークトティーガーはどのような記憶で残ったのだろうか。
写真の車両だが、車体前部の下部に牽引用のロープが垂れている。
牽引を試みたようだが、放置されたようだ。
ティーガーⅡ系列は重量が過大で、エンジンやトランスミッションへの負荷が大きく機械故障が多かった。
さらに燃費も悪いため、損害を受けなくても燃料が尽きると放置するしかなかった。

■YouTube Get Inside the Tanks: Jagdtiger




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砲塔側面には第505重戦車大隊の部隊標識「馬上の騎士」が描かれている。
505大隊のマーキングは「突進する牡牛」だったが、1943年から1944年にかけて「馬上の騎士」に変更された。


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第502重戦車大隊所属のティーガー1。
マズルブレーキにシャークの顔のマーキングが描かれている。
太いマズルブレーキを正面から見るこの角度は迫力がある。
モデルアートのティーガーフィーベルに1/35で第502重戦車大隊第3中隊のティーガーを再現した作品が掲載されていた。
本物の写真は始めてみた。
ネットでティーガーの何かいい写真ないかと探していたら、たまたま発見した。

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Heinz Wilhelm Guderian
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ドイツ陸軍軍人
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ドイツ第三帝国陸軍上級大将。
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