4式中戦車について
太平洋戦争中、旧日本軍はアメリカ軍のM4シャーマン中戦車などに苦戦を強いられていた。
従来の日本軍の戦車は歩兵支援を主目的としており、対戦車戦闘では火力・装甲ともに圧倒的に劣っていた。
そこで「敵戦車を撃破できる強力な戦車」として開発が進められたのが、四式中戦車だった。
主砲は、高射砲をベースに開発された「五式七糎半戦車砲(75mm砲)」を搭載。
これにより、M4シャーマンを正面から撃破可能な火力を手に入れた。
車体前面の装甲は、最大75mm厚となり、従来の日本戦車(例えば九七式中戦車チハの最大25mm)とは格段に優れた防御力となった。
戦争末期のため、資材不足や空襲の影響で開発は遅れに遅れ、終戦までに完成したのはわずか2両のみだった。
実戦に投入されることなく終戦を迎えたため、その真価が戦場で証明されることはなかったが、この「たった2両しか完成しなかった」という事実が、後の大きなミステリーを生むことになる。
~猪鼻湖に沈む幻の戦車~
四式中戦車を語る上で欠かせないのが、静岡県の浜名湖(正確には北側に繋がる猪鼻湖)にまつわる水没伝説。
終戦直後の1945年8月下旬、進駐軍(GHQ)による兵器の接収を恐れた日本軍関係者は、極秘兵器であった四式中戦車を敵の手に渡すまいと、ひそかに湖へ沈めて隠したという証言が残っている。
当時の目撃者の証言では、「終戦直後、3両の戦車がやってきて、湖に向かってズザーっと沈んでいった」という地元住民の生々しい目撃証言が存在する(うち1両は別の戦車とされている)。
戦車が沈むのを見たのは一部の住民だけであり、「日本に2両しかない秘密戦車が沈んでいる」という噂は、長らく戦史ファンや地元の人々の間でロマンとして語り継がれていた。
この伝説は単なる噂で終わらず、2012年頃からは模型会社の社長や有志による「引き揚げプロジェクト」が本格始動し、クラウドファンディングで資金を集め、ソナー探査や磁気探査、さらにはダイバーによる湖底調査まで行われた。
探索の結果はどうなったのか?
結論から言うと、現在も四式中戦車は発見されていない。
戦後、周囲のみかん畑などから流れ込んだ土砂により、湖底には3メートル以上の分厚いヘドロが堆積しており、もし本当に沈んでいたとしても、その泥の奥深くに完全に埋まってしまっていると考えられている。
四式中戦車は、旧日本軍が最後に到達した戦車技術の結晶であると同時に、今も日本の湖底のどこかで静かに眠り続けているかもしれないという、歴史のロマンを強く感じさせる幻の戦車である。
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中央に鎮座しているのが、四式中戦車「チト」 試作車。
撮影時期: 1945年(昭和20年)8月、終戦直後、進駐してくる米軍に引き渡す前の撮影と推定される。
撮影場所: 千葉陸軍戦車学校(千葉県千葉市)
対戦車戦闘能力に劣る日本軍の主力戦車(九七式中戦車など)に代わり、アメリカ軍のM4シャーマンに対抗しうる本格的な戦車として開発された。
四式中戦車は終戦までに2両(諸説あり)の試作車が完成したのみで、この写真に写っているのは、千葉陸軍戦車学校で各種の実用・射撃試験が行われていた試作2号車とされている。
四式中戦車の砲塔部分は、それまでの日本戦車とは異なる大型の鋳造構造で、写真からも、表面の独特な荒れや重量感がうかがえる。
この車両はアメリカ軍に接収され、本土のアバディーン性能試験場へ送られてテストされた後、スクラップになったと言われている(なお、試作1号車は接収を逃れるため、静岡県の浜名湖・猪鼻湖に沈められたという「幻の戦車」伝説で有名)。
隣の見切れている車輛は、四式十五糎自走砲「ホロ」(写真左)
九七式中戦車(チハ)の車体をベースに、旧式化していた「三八式十五糎榴弾砲」をオープントップ式の戦闘室に搭載した自走砲。
元々は陣地攻撃などの火力支援用だが、大口径榴弾の威力を活かした対戦車戦闘も期待され、フィリピンのルソン島戦線などにも実戦投入された。
巨大な防盾と太く短い砲身が特徴。
撮影時期:は、1942年頃と推定。東部戦線(ソビエト連邦領内)のどこか。
兵士は、 陸軍(Wehrmacht Heer)の野戦服を着用した兵士、各部隊間を走り回るオートバイ伝令兵(Kradmelder)などの任務に就いていた兵士だろう。
オートバイは、 DKW社製の軍用オートバイ(NZ 350など)に酷似している。
ナンバープレートにある「WH-232180」の「WH」は、Wehrmacht Heer(国防軍陸軍)の所属車両であることを示している。
無数の道標(案内板)が、木造の建造物にびっしりと打ち付けらている。
ここは交通の要衝であり、補給基地や複数の部隊の司令部が密集していたことが窺える。
画像から明確に読み取れる主な標識の意味は以下の通り。
A.K.P.Armee-Kraftfahrpark:軍自動車廠(軍用車両の修理・保管・補給拠点)
TankstelleTankstelle:ガソリンスタンド(燃料補給所)
Batl. StabBataillonsstab:大隊本部
N-St. BereifungNachschubstelle Bereifung:タイヤ補給・交換所
HKP 629Heeres-Kraftfahr-Park: 629第629陸軍自動車廠
Marine PKMarine-Propaganda-Kompanie:海軍宣伝中隊
この他にも、「GERAT(器材・装備)」といった文字や、歩兵、砲兵、装甲部隊、対空砲部隊などを示すドイツ軍特有の戦術記号(菱形や長方形のシンボルマーク)が確認できる。
海軍の部隊(Marine PK)を示す看板が混ざっていることから、黒海沿岸やバルト海方面など、海に近い地域である可能性も考えられる。
1945年2月ドイツのシュレジエン (Schlesien)の町に、放棄された第310突撃砲旅団の10.5cm突撃榴弾砲42型(StuH 42)。
シュレジエン (Schlesien)は当時ドイツ領だったが、第2次世界大戦後はポーランド領となっている。
10.5cm突撃榴弾砲42型(StuH 42)の背後にはソビエト軍のスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)が停まっている。
スチュードベーカーUS6はアメリカ製だがソビエト軍に貸与されたもの。
シュレジエンの町がソビエト軍に占領された後の撮影のようだ。
この突撃砲は、10.5cm砲の先端にマズルブレーキ(反動軽減装置)が付いていないタイプ。
StuH 42は、1944年後半以降の生産型では省力化のためマズルブレーキ無しの砲身で生産されていた。
マズルブレーキ無しでも実戦では影響は無かった。
10.5cm突撃榴弾砲42型(StuH 42)の車体の後に、現地で調達したと思われる棺桶が二つ並んで置かれているのが見える。
この車輛の乗員の遺体を埋葬するためのものかも知れない。
あるいはソビエト赤軍が、敵兵の遺体を手厚く葬ったという宣伝用に置き撮影したものかも知れない。
後の建物の壁にAdler Apotheke(アドラー・アポテーケ)(鷲薬局)というドイツ語の看板が見える。
ニーダーザクセン・ハノーファー機械製作所(MNH:Maschinenfabrik Niedersachsen-Hannover)工場内での生産ラインの様子。
MNHは、大戦末期にパンター中戦車とヤークトパンター駆逐戦車を同一の組み立てライン(または隣接するライン)で並行して製造していた唯一の工場であり、この写真はその生産状況を伝えている。
ニーダーザクセン・ハノーファー機械製作所(MNH)は、第二次世界大戦中のドイツにおいて、MAN社やダイムラー・ベンツ社と並んでパンター戦車の三大生産拠点の一つとなった重要な工場。
この工場には、その設立の経緯から終戦前後の混乱期にかけて、いくつかの興味深いエピソードがある。
MNHは、クルップやラインメタルのような古くからの歴史ある兵器メーカーではない。
1939年、ドイツ政府(陸軍兵器局)の強力な主導により、ハノーファー周辺にあった鉄鋼業者や機械メーカーなど複数の企業を半ば強制的に合併させて誕生した、いわば合併国策企業だった。
中核となった企業は、ハーフトラックを生産していたハノマーグ社と、同じく地元の鉄鋼・機械メーカーであったヴュルフェル鉄工所(Eisenwerk Wülfel)。
目的はただ一つ、兵器の大量生産のため。
ハノマーグ社は、ハーフトラックや機関車の生産で工場ラインが埋まっていたため、別会社を設立して戦車を増産させる目的もあった。
戦車製造の歴史が浅いにもかかわらず、最新鋭の設備と優れた技術者を集められたため、結果的にドイツ有数の戦車工場へと急成長を遂げてゆく。
工場による戦闘車輛の塗装の違いについて。
当時の戦車等の記録写真から特定の生産工場を割り出す際、面白い判断基準となるのが工場ごとの迷彩パターンの違いがある。
1944年後半以降、ドイツ軍は前線の部隊ではなく、工場出荷の段階で迷彩塗装を施すよう通達が出された。
この際、MNH工場で生産されたパンターG型には、独特な迷彩パターンが施されていた。
斜めストライプ迷彩で、ダークイエローのベースに、レッドブラウンとオリーブグリーンの太い帯が、車体や砲塔を斜めに横切るように塗装されていた。
他工場(MAN社やダイムラー・ベンツ社)が雲形や斑点模様を多用したのに対し、MNHのこの直線的なストライプ迷彩を車輛に施していた。
戦車等の写真から生産工場を特定する場合、「MNH迷彩」は分かりやすい。
MNH工場がイギリス軍の手に落ちる直前の1945年4月上旬、絶望的な防衛戦を強いられていたドイツ軍は、MNH工場にあった「動くもの」すべてをかき集めた。
写真に写っているような、生産途中の塗装も不完全で、照準器や一部の装甲すら未装着の製造途中のパンターに、急遽テストドライバーや工場の工員、工場の防空担当兵などが乗り込み、そのままハノーファーの防衛戦へと出撃していった。
レッドプライマー(錆止め塗料)剥き出しのまま戦場に投入されたこれらの車両は、大戦末期の混乱を象徴する悲壮なエピソードとして記憶されている。
MNHにまつわる最も有名なエピソードの一つとして、イギリス軍のための「戦後型」パンターが生産されていたということがある。
1945年4月、イギリス軍がハノーファーを占領し、MNH工場も接収された。
イギリス軍は、工場に残っていた部品や半完成品の車体を見て、「テストと技術評価のために、このまま完成させてみてほしい」と命じた。
イギリス軍監督下で戦車が生産され、終戦後であるにもかかわらず、ドイツ人作業員たちがイギリス軍の王立電気機械技術兵団(REME)の監督の下、パンター戦車とヤークトパンターの組み立てを再開したことがあった。
この時に生産された数輌の車両は、イギリスに送られて徹底的なテストを受けた。
現在、イギリスのボービントン戦車博物館に展示されている状態の良いパンターG型は、実はこの終戦後にMNH工場でイギリス軍のために作られたパンターという非常に珍しい経歴を持っている。
車体前面のナンバープレート「WH-1313058」から、国防軍陸軍(Wehrmacht Heer)の所属車両であることが分かる。
背後に見える鬱蒼とした針葉樹林と舗装されていない泥濘の道、残った雪からロシア(東部戦線)での撮影と思われる。
Sd.Kfz. 233(7.5cm砲搭載型)が生産されたのは1942年末からなので、1943年東部戦線における陸軍所属の装甲師団又は装甲擲弾兵師団の装甲偵察大隊の車輛と想像される。
国防軍陸軍のナンバープレートは、特定の師団や大隊ごとに連番で支給されるシステムではなく、軍管区(Wehrkreis)ごとに一定のブロック(番号帯)で割り当てられていたため、当時の車両台帳や部隊記録(Kriegstagebuch)と照合できない限り、詳しい部隊名等を調べるのは難しい。
詳しい方がいらっしゃれば、お教えいただけると助かります。
ちなみにドイツ軍の車輛ナンバープレートは、陸・海・空軍で以下のようになっていた。
WH:陸軍(Wehrmacht-Heer)
WL:空軍(Wehrmacht-Luftwaffe)
WM:海軍(Wehrmacht-Marine)
Pol:警察(Polizei)(警察擲弾兵師団を含む)
ᛋᛋ:武装親衛隊(Waffen-SS)
ティーガーI(初期〜中期型)の車体を、生産工場(ヘンシェル社のカッセル・ミッテルフェルト工場)(Kassel-Mittelfeld)において垂直に吊り上げた状態。
50トンを超える重戦車の検査を安全かつ効率的に行うための作業の一コマと推定される。
恐らく前線で修理不能で工場に搬送された車輛だろう。
車体の向きは、画面の下側(床に近い方)が車体後面(エンジン室側)、上側が車体前面になる。
重い車体の下に潜り込むことなく、安全に底面等のチェック、またトーションバーや転輪、足回りのアライメント(整列具合)の確認や、各サスペンションの動きに歪み等を検査していると思われる。
写真の撮影時期は、1942年末〜1943年末(または1944年1月)の間と推定。
装着されている転輪が、外周に黒いゴムが焼き付けられた「ゴム縁付き転輪」(初期〜中期型)であることが分かる。
ティーガーIは1944年2月(生産車台番号250822以降)から、ゴム資源の節約と重量対策のために、内部にゴムリングを仕込んだ「スチール転輪」へと移行し、同時に転輪の配列も簡略化される。
ティーガーの転輪の特徴として底面から見ると「千鳥足式転輪」が良く分かる。
片側8本のトーションバー(サスペンション軸)に対し、転輪が内側・中間・外側の3列に分かれ、お互いに重なり合うように交互に配置されている。
57トンに達する巨体を、幅725mmの幅広い戦闘用履帯(キャタピラ)へ均等に接地させ、接地圧を極限まで下げるための設計。これにより、泥濘地や雪原でも優れた走破性を発揮し、射撃時には極めて安定したプラットフォームを提供した。
しかし整備には大変な労力を要し、最も内側の転輪やサスペンションアームが破損した場合、手前にある複数の外側転輪をすべて外さなければならなかった。また、東部戦線などの過酷な環境では、この転輪の隙間に泥や雪、石が詰まり、夜間にそれが凍結してキャタピラがロックしてしまうという問題もあった。
1943年7月のクルスク戦北部戦区の戦いで、砲身を貫通されたⅣ号G後期型。
所属は、中央軍集団隷の第47装甲軍団(ヨアヒム・レメルセン大将) の第20装甲師団。
第20装甲師団は、第2および第9装甲師団 と共にソ連軍防衛陣地の突破を図った。
この時期第20装甲師団指揮下には第21戦車連隊(Panzer-Regiment 21)が編成されていたが、損耗激しく第21戦車大隊に改編され大隊規模の編成になっていた。
第21戦車大隊は、Ⅳ号G後期型が主に配備されていたという。
写真のⅣ号戦車は、操縦手用の開閉式装甲バイザー(Fahrersehklappe 50)(ファーラーゼークラッペ 50)の上に四角い切り欠きの隙間が見えるのでG後期型と分かる。
G後期型は、車体前面の基本装甲(50mm)の上に、さらに30mmの増加装甲(Zusatzpanzerung)(ツザッツパンツァーング)がボルト留め、あるいは溶接で追加されているため、操縦手用の装甲バイザーの上に四角い切り欠きの隙間がある。
G後期型の最終生産型は80mmの一枚板になり、H型との識別が難しくなる。
細い砲身のシリンダー部分に砲弾が命中し貫通するのは稀。
貫通した穴を見ている黒い戦車兵用の略帽(シフヒェン)をかぶった戦車兵は、砲塔車体に命中せず砲身で済んで幸運だったという安堵の気持ちだろうか。
装甲教導師団 第130装甲教導連隊第一大隊のパンターA型ないしD後期型。
1944年6月、カーン(Caen)周辺、あるいはティリー=シュル=スール(Tilly-sur-Seulles)近郊で撮影されたものとされる。
ノルマンディーの戦いは、連合軍の圧倒的な航空優勢にさらされていたため、車輛は徹底した対空擬装が施されていた。
制空権を失ったドイツ軍にとって対空偽装の良し悪しは、生死を分けた。
■ノルマンディーの戦い
ノルマンディー地方のティリー村の戦闘で撃破された装甲教導師団のⅣ号H型戦車。
1944年8月米軍による撮影。
第130装甲教導連隊第2大隊所属車輛
ノルマンディー戦時、第1大隊はパンター(V号戦車)を装備し、第2大隊はIV号戦車を装備していた。
514は第5中隊第1小隊4号車を意味する。
ダークイエロー(ドゥンケルゲルブ)をベースに、ダークグリーンやレッドブラウンを吹き付けた三色迷彩が施されている。
車体前面には、防御力を高めるために予備履帯が取り付けられている。現地改修の典型的な例。
この514号車は、1944年6月中旬、フランスのノルマンディー地方ティリー=シュル=スーユ(Tilly-sur-Seulles)(地図の楕円赤枠の地域)村をめぐるイギリス軍との戦闘で撃破された。
対峙したイギリス軍は第50(ノーサンブリア)歩兵師団および、北アフリカでロンメルと戦った第7機甲師団だった。
ティリー=シュル=スーユ村は戦略上の要衝で、ドイツ軍とイギリス軍との間で23回も占領者が入れ替わるという激戦が繰り広げられた。
ドイツのパーダーボルン(paderborn )のティーガー乗員訓練施設(ティーガー戦車学校)での訓練生たちの記念撮影(1943年)。
パーダーボルンにおける訓練の中核を担ったのは、第500重戦車補充訓練大隊(Panzer-Ersatz-und-Ausbildungs-Abteilung 500)。
訓練生たちは、単なる運転や射撃だけではなく、複雑で故障の多いティーガーの整備(メンテナンス)が徹底的に叩き込まれた。
パーダーボルンにティーガー乗員訓練施設が設けられたのは、近郊にティーガーを生産しているヘンシェル社の工場(カッセル)から比較的近く、鉄道輸送の便も良かったため、重戦車の補給・修理・訓練を効率的に行うのに都合が良かったという理由がある。
ここ数日楽天ブログ(mahorobaのミリタリー&模型の部屋)がアクセス出来なくなっている障害が発生しています。
検索してみましたが、楽天ブログは何も発表していないようで古い情報しかありませんでした。
何が起きているのかご存知の方がいらっやいましたら、コメントいただけると助かります。
追記
障害が発生しています。
本多忠刻さんのブログに記載がありました。
■本多忠刻
ティーガーⅠの砲塔後面に描かれた
第502重戦車大隊のマンモスマーク
ソビエト軍に捕獲された車輛。
ラトガ湖周辺の戦いで失われたティーガーはソビエト軍に捕獲され
モスクワで公開展示された。
ラトガ湖周辺の戦いに投入された第502重戦車大隊のティーガーⅠ
砲塔の後部に部隊マークのマンモスマークが見える。
ラトガ湖周辺の戦いでソビエト軍に捕獲されたティーガーⅠ
モスクワで公開展示された車輛。
ラトガ湖周辺の戦いでソビエト軍に捕獲されたティーガーⅠ
モスクワで公開展示された車輛。
第502重戦車大隊はドイツ軍でティーガーⅠが配備された部隊で最初に実戦を経験した部隊で、ヒトラーの命令でレニングラードの戦いに投入された。
このときの最初の配備数はティーガー4輌だった。
ティーガーⅠは、1942年9月16日にラドガ湖南部で初めて戦火を交えたが、湖周辺の泥濘地に行動が制限され1輌が失われ、ティーガーⅠ最初の損失となった。
第502重戦車大隊は、敗戦まで終始東部戦線で戦い続けオットー・カリウスやヨハネス・ベルターといったティーガーエースを輩出した。
戦闘機対戦車(原題:Death Race)は、1973年に放映されたアメリカのテレビ戦争映画。
第二次世界大戦の北アフリカ戦線で、戦線後方に取り残されてしまったドイツ軍戦車と、戦車の砲撃で主翼を損傷し飛べなくなった連合軍のP40戦闘機の追跡劇。
戦闘機を追いかけ回すドイツ軍の将軍役のロイド・ブリッジスが異常な人間像を演じている。
スタッフ
監督:デヴィッド・ローウェル・リッチ
製作:ハーヴ・ベネット、テリー・K・ミード
脚本:チャールズ・クエンストル
撮影:テリー・K・ミード
音楽:ハル・ムーニー、ミルトン・ローゼン
編集:レス・グリーン、カール・ピンギトア
キャスト
ダグ・マクルーア
ロイド・ブリッジス
ロイ・シネス
デニス・デューガン
デニス・ラッカー
エリック・ブレーデン
ブレンドン・ブーン
クリストファー・ケリー
アイヴァー・バリー
■YoutubeDEATH RACE
『遠すぎた橋』(A Bridge Too Far)は、史上最大の空挺作戦であるマーケット・ガーデン作戦を題材にした戦争映画。
コーネリアス・ライアンの戦争小説『遥かなる橋』(A Bridge Too Far)を原作としている。
この作品の見所は多々あるが、特にアーンエム橋上でのドイツ軍装甲偵察大隊と英第一空挺師団先遣隊との戦闘シーンではないだろうか。
このアーンエム橋上での戦闘は、戦史にも残る激戦として記録されている。
スタッフ
監督:リチャード・アッテンボロー
製作:ジョセフ・E・レヴィン、リチャード・P・レヴィン、ガブリエル・カツカ
原作:コーネリアス・ライアン
脚本:ウィリアム・ゴールドマン
撮影:ジェフリー・アンスワース
音楽:ジョン・アディソン
編集:アントニー・ギブス
美術:ロイ・スタンダード、スチュアート・グレイブ
助監督:デビッド・トンブリン
音響効果:サイモン・カイエ
特殊効果:ジョン・リチャードソン
衣装デザイン:アンソニー・メンデレソン
キャスト
ロバート・レッドフォード
ジーン・ハックマン
ローレンス・オリヴィエ
エリオット・グールド
マイケル・ケイン
ダーク・ボガード
ショーン・コネリー
アンソニー・ホプキンス
マクシミリアン・シェル
フレッド・ウィリアムズ
■Youtube:遠すぎた橋 予告編
■Youtube:German armoured division attack Arnhem bridge in operation market garden
■Youtube:【遠すぎた橋】【A Bridge Too Far Full version】
エルンスト・ギュンター・バーデ(最終階級中将) Ernst-Günther Baade
1942年北アフリカの戦いのとき第15装甲師団第115装甲擲弾兵連隊連隊長だったエルンスト・ギュンター・バーデ大佐は単独で手榴弾と爆薬を使い敵戦車を撃破し、戦車撃破章を授与された。
ドイツ軍の高級将校として唯一戦車撃破章を授与された人物となった。
バーデは前線の視察を頻繁に行っていて、部下の兵隊たちから人気があった。
1944年のモンテ・カッシーノの戦いでは、修道院の文化財保護に配慮したり、敵である負傷したイギリス軍捕虜に対して人道的な医療を提供し、戦場での一時休戦を提案した。
またイギリス軍の将校と無線で皮肉を交えた会話を楽しんだりといった、「騎士道精神」に溢れたエピソードが多々ある。
最期は1945年4月5日、ドイツホルシュタイン州で地上攻撃機の攻撃を受けて重傷を負い、5月8日ドイツ降伏の日、戦傷によりバート・ゼーゲベルクの病院で死亡した。享年47歳だった。
北アフリカ、チュニジアのロングストップ高地の戦闘で放棄された第504重戦車大隊のティーガーⅠ(131号車)。
イギリス軍に捕獲され、戦後ボービントン戦車博物館に展示されることになる。
現在可動する唯一のティーガーで、 ブラッド・ピット主演の映画フューリーにも登場した。
■YoutubeDriving a Tiger Tank
Fallingbostel(フォーリングボステル)戦車訓練学校のパンターと訓練生たち。
フォーリングボステルは、隣接するベルゲン(Bergen)とともに、1930年代の再軍備計画の一環として大規模な演習場が整備された。
広大な土地があり、リューネブルガーハイデと呼ばれる平原と森林地帯は、戦車の機動演習や長距離射撃訓練に最適だった。
1937年頃から本格的な軍事施設として整備され、装甲部隊(Panzerwaffe)の練成の場となった。
大戦中、フォーリングボステルは単なる訓練地ではなく、新しい部隊の編成や、最新兵器の受領・習熟訓練を行う母港のような役割を果たした。
多くの戦車師団や独立重戦車大隊が、ここで編成を完結させてから前線へと送り出された。
ティーガー戦車最初の運用では第501重戦車大隊などの独立部隊が、重戦車の運用訓練を行ったことでも知られている。
大戦中期~後期には、フォーリングボステルやベルゲン、ポツダムなどの訓練施設にいた訓練部隊の教官たちが集められ、「装甲教導師団」がこの訓練施設で編成された。
この訓練学校では、主に以下のような教育が行われていた。
射撃訓練: ティーガーやパンターの8.8cm/7.5cm砲を用いた長距離精密射撃。
無線運用: 装甲部隊の命ともいえる戦車間通信の訓練。
戦術機動訓練: 小隊・中隊単位での集団運用や、歩兵・空軍との諸兵科連合(電撃戦の基礎)のシミュレーション。
整備と修理: 戦車兵自身による野外でのエンジン交換や履帯修理など、技術的な習熟。
余談だが、Fallingbostel市のDorfmark(ドルフマルク)町には戦後、1973年6月10日85歳で亡くなったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元元帥の墓がある。
*参考HP:ドイツでマンシュタイン元帥のお墓を訪れた
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