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ロバの背中にパンツァーファーストを乗せ防楯までついている。
ひし形の網のようなものは照準?に使ったのだろうか・・・
一体どういう運用をしたのだろう・・・
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製産途中のティーガーⅡの砲塔
戦後、米軍による撮影。
カッセル( Kassel)にあるヘンシェル社の工場と思われる。


突撃砲の乗員配置の参考資料として撮影された写真。
右後方より、車長、砲手、操縦手。左側一人が装填手。




Fallingbostel(フォーリングボステル)戦車訓練学校のパンターと訓練生たち。
Fallingbostel市のDorfmark(ドルフマルク)町には戦後
1973年6月10日85歳で亡くなったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元元帥の墓がある。

*参考HP:ドイツでマンシュタイン元帥のお墓を訪れた




クルスク戦プロホロフカの戦いで破損したティーガーの砲身。
第2SS装甲師団ダスライヒ所属の車両。
マズルブレーキ取り付けのための螺旋状の溝が見えていて興味深い。






西部戦線のパンターG型、1945年1月の撮影。
Drachenzaehne ドラッヘンツァーン(龍の歯)の間の道路を抜けていく、ジークフリートラインと思われる。

※you tube  German WW2 Tank Pictures in Color





『鷲は舞いおりた』は1976年のイギリスの戦争映画。ジャック・ヒギンズの戦争冒険小説『鷲は舞い降りた』を映画化したもの。
ウィンストン・チャーチルを拉致してドイツへ連れてくるというヒトラーの思いつきに命をかけて作戦を遂行していく軍人や工作員たちの活躍と悲劇を描いている。
高校生のころ原作を読んで感動し、その後テレビで放送された映画を見ました。
映画は、ラストの描き方が原作とは違う結末となっている。

キャスト
クルト・シュタイナー - マイケル・ケイン
リーアム・デヴリン - ドナルド・サザーランド
マックス・ラードル - ロバート・デュヴァル
モリー - ジェニー・アガター
ヒムラー - ドナルド・プレザンス
カナリス - アンソニー・クエイル
ピット大佐 - ラリー・ハグマン
クラーク大尉 - トリート・ウィリアムズ

スタッフ
監督:ジョン・スタージェス
製作:ジャック・ウィナー、デイヴィッド・ニーヴン・ジュニア
原作:ジャック・ヒギンズ
脚色:トム・マンキーウィッツ
撮影:アンソニー・B・リッチモンド
音楽:ラロ・シフリン
編集:アン・V・コーツ
美術:ピーター・マートン
衣装:イボンヌ・ブレイク
提供:アソシエイテッド・ジェネラル・フィルムズ、ITC

※you tube 鷲は舞いおりた 映画予告編
※you tube 鷲は舞いおりた シュタイナー部下との別れのシーン




ツェッペリン(Zeppelin)は、第一次世界大戦でドイツ軍が使用した飛行船を題材にした1971年公開のイギリス戦争映画。
当時CGは無いから、模型を使って撮影されたが、ツェッペリン飛行船は模型とは思えぬ迫力の映像が展開する映画。

キャスト
ジェフリー・リヒター中尉 :マイケル・ヨーク
エリカ :エルケ・ソマー
タントラー少佐: ピーター・カーステン
アルツシェル博士 :マリウス・ゴーリング
ヒルシュ大佐 :アントン・ディフリング
フォン・ゴリアン船長 :アンドリュー・ケア
ウィットニー大尉 :ルパート・デービス
ステファニー :アレクサンドラ・スチュワルト

監督
エチエンヌ・ペリエ

脚本
アーサー・ロウ
ドナルド・チャーチル

音楽
ロイ・バッド

※you tube  Zeppelin Takeoff Scene



胸に歩兵突撃章をつけている。
ひげの面構え、いかにも歴戦の勇士という感じである。




このティーガー1、砲塔がキューポラの形状から初期型、車体は転輪がゴムなしの鋼製転輪の後期型というハイブリッドな特異なティーガーである。
ゲベックカステンは三号戦車のもので、これは1942年レニングラードに投入された第502重戦車大隊の極初期型ティーガーが装備していた。この当時の車両の砲塔と後期型の車体、あるいは鋼製転輪のみを取り付けツィンメリットコーティングを施した車輌だろうか。
1945年1月、ポーランドのチェンストホバ(Czestochowa)での撮影。
前線の整備部隊で修理不可能な車両は後送され工場で修理されたが、このティーガーもその内の1輌なのだろう。




1944年4月20日の総統誕生日に披露されたJagdtiger (ヤークトティーガー)。



ブルムベア初期型とそのクルー。
写真のキャプションにはItaly 1944とあったので、このブルムベアは第216突撃戦車大隊の所属車両と思われる。
第216突撃戦車大隊は、東部戦線に投入され損耗激しくオーストリアで再編成後イタリア戦線に投入された。
搭載砲の15㎝43式突撃榴弾砲は12口径の短砲身とはいえ150ミリ砲の威力は凄まじく、成形炸薬弾IGr39H/1を使用した場合T34などの戦車を爆砕するほどの威力をもっていた。
兵士が持っている砲弾は重量40kgのIGr38 FES榴弾。





バイザーブロック横に砲弾が命中しえぐれている。
衝撃と破損でバイザーブロックは作動不能だと思われる。
このバイザーブロックは車内のハンドル操作で装甲バイザー部分が上下に動き開閉する。
戦闘時はバイザーブロックを閉めて車体上面のペリスコープで操縦することが基本だが、視界が狭くバイザーブロックを僅かに開けてペリスコープと併用して視界を確保することが多かったという。

下写真は操縦席からみたドライバーズバイザー。
防弾ガラスが光る右下に見えるバルブのようなハンドルがバイザーブロックを上下するハンドル。










ヨーゼフ・アラーベルガー上級兵長。第3山岳師団第144連隊所属の山岳猟兵。
東部戦線で257名を狙撃で倒したエーススナイパーの一人。
345名を倒したマテウス・ヘッツェナウアーMatthäus Hetzenauerにつぐドイツ軍第2位の記録であるとされる。
劣勢の東部戦線で次々に敵を倒し獅子奮迅の活躍を見せ、敗戦をチェコで迎える。
ソ連軍の捕虜となり狙撃兵であることが発覚すれば、拷問や処刑といった過酷な運命が待っていた。
アラーベルガーは報復を恐れ決死の脱出行で米軍占領下の故郷のシュタイアーマルク州ザルツブルクにたどり着き降伏するが、ソ連軍に引き渡されそうになり脱走し、一般人にまぎれこみ家業の家具職人となる。
2010年3月2日にオーストリアのヴァルス・ズィーツェンハイムで85歳で死去した。









Tauchpanzer Ⅳ タオホ パンツァー Ⅳ(Ⅳ号潜水戦車)

英本土上陸ゼーレーヴェ作戦(アシカ作戦)用に4号戦車D型を改造した潜水戦車。
シュノーケルを水面のフロートで浮かして給排気を行い水底を走行する潜水渡渉方式の潜水戦車である。    
砲塔前面や機銃の周囲に防水シール取り付け用の枠が見える。
下から2番目の写真は給排気用の太い蛇腹ホース。
防水箇所はコーキング材、防水布、金属カバーなどでシーリングされたが、主砲や機銃のカバーは上陸後すぐ使用できるように火薬で吹き飛ばせるようになっていた。
英本土上陸が断念され、後にバルバロッサ作戦で第18装甲師団にⅢ号潜水戦車とともに集中配備されブーク川渡河で実戦投入された。








無線手機銃手用ハッチから顔だけ出して食事をする戦車兵。
砲塔左の主砲用照準器が単眼式照準器なのと回転式前部ハッチからこのパンターはA型である。
ちなみに照準器はTZF12aを搭載している。下二枚写真がTZF12a照準器と照準画面。

この回転式前部ハッチは単純な構造のように見えるが生産取り付けにはヒンジ式より手間がかかるらしく、G型ではヒンジ式ハッチに変えられている。





ドイツ空軍女性補助員。

第二次世界大戦、連合軍ドイツ軍共に、日本も多くの女性が補助員、労働力として動員された。

上写真は、都市部への空襲に備える対空監視の連絡に空軍に徴用されたドイツ人女性。
プロパガンダ映像だろうか。怖いくらいの真剣な表情をとらえた写真。
週間ニュースの一部かもしれない。

下写真は、同じく空軍に徴用され、訓練を受ける女性たち。





米軍が捕獲したティーガーⅡをメリーランド州アバディーンにある戦車試験場で試験調査した後、装甲板を切り取り展示したもの。
この車両は切り取った部分に鉄板を貼り付け現在でもアバディーンに展示されている。

カットモデルのようである。




グラン・サッソ襲撃(ベニート・ムッソリーニの救出作戦)といえば、武装親衛隊のオットー・スコルツェニーが有名だが、急襲部隊の指揮官は空軍のハラルト・オットー・モルス少佐が指揮していた。
スコルツェニーは急襲後のムッソリーニの保護を命じられていた。

ヒトラーはバドリオ政権によって拘束されたムッソリーニの救出を空軍のクルト・シュトゥデント大将に命じ、空軍の指揮下で作戦が計画され実施された。
シュトゥデントはラジオ放送の暗号解読等による調査の結果、ムッソリーニがグラン・サッソのホテル「カンポ・インペラトーレ」に幽閉されていることを突き止め、山頂にモルス少佐指揮の下、降下猟兵と武装親衛隊をグライダーで降下させた。

山荘の警備にあたっていたイタリアの国家憲兵は抵抗することなく、幽閉されていたムッソリーニの身柄は無傷で確保された。
急襲後、スコルツェニーはムッソリーニとともにFi156に乗り込んで、機は重量オーバーながらも無事に離陸し、グラン・サッソを脱出した。
このときの記録映像が週間ニュース等で大々的に報道され、スコルツェニーは一躍有名となった。

ハラルト・オットー・モルスは1945年西部戦線でB軍集団に従軍し、アメリカ第3軍にルール工業地帯で包囲され、捕虜となった。
戦後、ドイツ連邦軍に入隊して最終階級は大佐。
2001年にバイエルン州シュタルンベルクで死去した。

※下写真:黒服のムッソリーニの左側の人物がモルス少佐。




※NHKアーカイブス  ベニート・ムッソリーニの救出作戦



















Ⅱ号戦車の武装は20ミリ機関砲1門と7.92ミリ機銃1門だが、その55口径20ミリ機関砲 (2cm KwK30 L/55)は高射機関砲を転用したもので初速が速く、榴弾、徹甲弾両方が射撃可能で対歩兵用や軽装甲車両には充分な威力を持っていた。
ポーランドやフランス戦など電撃戦の初期にはⅡ号戦車は訓練用戦車として開発された車両にもかかわらず、小型軽量で機動力の高さから機甲師団の実質的な主力戦車として活躍した。
東部戦線でT34やKV、北アフリカで英軍のマチルダ等に遭遇するまでは安価で生産性が高く存在意義は充分にあった。


1943年冬の東部戦線での撮影。
砲塔のシュルツェンのみで車体側面のシュルツェンを装着していない状態のH、J型は、四号戦車の造形?として最もバランスのよい形体に見える。
私はそう感じてしまうのだが・・・

IV号戦車H型は1943年4月から生産が始まり、1944年7月までに3,774両が生産されたが、この次期新型主力戦車パンターの量産が軌道に乗っていたが、IV号戦車の生産ラインをパンターに切り替える時間的余裕はなく、切迫する戦況に生産が続けられた。







フンメルの30口径15cm重榴弾砲sFH18の砲弾。
分離薬莢式の砲弾で、弾種はHE(榴弾)のGr.19と、AP(徹甲弾)のGr.19Hl/Aの二種類があった。
写真はGr.19。
通常6個の装薬を距離に応じて調整して使用した。
指揮官の判断で特別に8番装薬まで用いて発射した場合、砲口初速495m/秒、最大射程は13,250m。

この重榴弾砲は10.5cm leFH 18と共にドイツ陸軍と武装親衛隊の師団砲兵に装備された主力榴弾砲だが、車軸にサスペンションが無く移動速度が遅く、また泥濘地や積雪状態では機甲部隊に追随することが出来なかったがフンメル、ヴェスペに搭載されようやく随伴が可能になった。



軟弱地盤にめり込んで動けなくなって放棄されたようだ。
前部が上がっているのでローギアでエンジンをふかして何とか脱出を試みたのだろう。
戦闘が終わり平和を取り戻し、脇の夫婦と思われるカップルが記念撮影といったところか。



ラインメタル社の傘下にあったスイスのゾロターン社が開発した対戦車ライフル。
装甲貫徹力は距離100m、撃角60度で20mmの装甲を貫通した。
大戦が始まり戦車の装甲が厚くなると、対戦車ライフル自体が陳腐化してしまうが、重機や軽機にはない迫力がある。
兵器の持つ凄みを感じさせる。

口径:20ミリ
重量:45 kg (マガジン無し)
全長:176 cm
銃身長:92.5 cm
弾丸 20×105mm
作動方式 セミオートマチック
初速 735 m/s 徹甲弾
装填方式 10発ボックスマガジン



酷寒の中での戦車兵の表情が印象的だ。
1941年のロシアで冬将軍に見舞われた次期の撮影。
車種は三号戦車G~J型のいずれかと思われる。

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ドイツ陸軍軍人
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ドイツ第三帝国陸軍上級大将。
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