グラン・サッソ襲撃(ベニート・ムッソリーニの救出作戦)といえば、武装親衛隊のオットー・スコルツェニーが有名だが、急襲部隊の指揮官は空軍のハラルト・オットー・モルス少佐が指揮していた。
スコルツェニーは急襲後のムッソリーニの保護を命じられていた。
ヒトラーはバドリオ政権によって拘束されたムッソリーニの救出を空軍のクルト・シュトゥデント大将に命じ、空軍の指揮下で作戦が計画され実施された。
シュトゥデントはラジオ放送の暗号解読等による調査の結果、ムッソリーニがグラン・サッソのホテル「カンポ・インペラトーレ」に幽閉されていることを突き止め、山頂にモルス少佐指揮の下、降下猟兵と武装親衛隊をグライダーで降下させた。
山荘の警備にあたっていたイタリアの国家憲兵は抵抗することなく、幽閉されていたムッソリーニの身柄は無傷で確保された。
急襲後、スコルツェニーはムッソリーニとともにFi156に乗り込んで、機は重量オーバーながらも無事に離陸し、グラン・サッソを脱出した。
このときの記録映像が週間ニュース等で大々的に報道され、スコルツェニーは一躍有名となった。
ハラルト・オットー・モルスは1945年西部戦線でB軍集団に従軍し、アメリカ第3軍にルール工業地帯で包囲され、捕虜となった。
戦後、ドイツ連邦軍に入隊して最終階級は大佐。
2001年にバイエルン州シュタルンベルクで死去した。
※下写真:黒服のムッソリーニの左側の人物がモルス少佐。
■NHKアーカイブス ベニート・ムッソリーニの救出作戦
1943年冬の東部戦線での撮影とされる。
砲塔のシュルツェンのみで車体側面のシュルツェンを装着していない状態のIV号戦車H型ないしG後期型。
シュルツェンを装備した状態のIV号戦車は4号の造形?として最もバランスのよい形体に見える。
私はそう感じてしまうのだが・・・
IV号戦車H型は1943年4月から生産が始まり、1944年7月までに3,774両が生産され、この次期新型主力戦車パンターの量産が軌道に乗っていたが、IV号戦車の生産ラインをパンターに切り替える時間的余裕はなく、切迫する戦況に生産が続けられた。
IV号戦車G型(Sd.Kfz.161/1)、特にその「後期生産型」は、IV号戦車が「支援戦車」から「主力戦車」へと完全に脱皮した、ドイツ軍戦車の重要な転換点にある戦車。
1943年冬の東部戦線において、ソ連軍の新型戦車(T-34/76の改良型など)に対抗すべく、矢継ぎ早に改良が施された車輛。
IV号戦車G型の総生産数は前期、中期、後期型合わせて1,687~1,930輌。
7.5cm KwK 40 L/48を装備。G前期型は43口径だったが、1943年4月頃の生産分からより長砲身48口径へと移行した。これにより、遠距離からソ連戦車を仕留める能力が向上した。
マズルブレーキの形状が球形に近いものから、より効率的な「ダブルバッフル型(あるいは新型の鋳造タイプ)」へと形状が変化したのも外見上の特徴の一つ。
防御力の向上と増設装甲板「シュルツェン」が装着された。
1943年、ソ連軍の対戦車ライフルによる被害が深刻化し、G型後期には追加装甲が施された。
シュルツェン(増設装甲板)は、1943年春から車体側面と砲塔周囲に5mm〜8mmの軟鋼板(シュルツェン)が装備された。これが「後期型」を最も特徴づけるシルエットとなっている。
前面装甲は合計80mmに強化。初期のG型は50mmの装甲に30mmの追加装甲をボルト止めしていたが、後期型では生産工程の簡略化のため、最初から80mmの一枚板で構成された車体となった。
ドイツ女子同盟 Bund Deutscher Mädel
ヒトラーユーゲントの女子版組織。
訳語は一定しておらず、ドイツ少女団、ドイツ処女団、ドイツ女子団とも訳されているようだ。
1930年に発足し、終戦まで存在した。
若年未婚の女子で、ドイツ民族の血統に属していることが入団の資格だった。
ドイツの将来を担う良妻賢母の育成が理念とされたが、従軍看護婦としての訓練や式典に備えて軍歌の練習も行われた。
youTube Bund Deutscher Mädel
Sturmhaubitze 42, StuH 42
3号突撃砲の車体に105ミリ榴弾砲を搭載したトーチカ攻撃用に開発された突撃砲。
1941年11月のレニングラード戦投入以来、通常の突撃砲に対し約3割の割合で配備された。
総生産数は1212輌。
前線での評価は高く、共に戦った歩兵からは10.5cm StuH 42は絶対に必要との報告がされていたという。
後期生産タイプでは、マズルブレーキは無くても問題ないとの運用結果から取り付けられていない車輛もある。
■you tube Sturmhaubitze 42映像
オストヴァルトゥルム(Ostwallturm 東方の壁砲塔)
コンクリートのトーチカ上にパンターの砲塔だけを置いた固定砲台。
トーチカ部分は地中に埋めるため、低姿勢となった砲塔の発見は困難であった。
イタリアで1基のオストヴァルトゥルムと対峙した英軍は戦車10両を撃破されたという。
トーチカ内には砲塔回転用のモーターが搭載されておりモーター駆動で砲塔が回転した。
乗員用の簡単な居住施設(ストーブ付き)も内部に設けられていた。
上面装甲は榴弾砲の砲撃にも耐えられるように40ミリに強化されていた。
*参考写真
カール・マイバッハ Karl maybach
マイバッハエンジンの技術者、経営者。
彼の父ウィルヘルム・マイバッハ(Wilhelm Maybach)はツェッペリン飛行船のエンジンを設計製造するエンジン製作会社を経営していた。
父ウィルヘルムの死後、カールは会社を受け継ぎ航空機エンジンの他に戦車や船舶など様々なエンジンを設計製造する会社に成長させた。
第二次世界大戦中のドイツ軍戦車のほぼ全てがマイバッハ社製のエンジンを搭載していた。
戦後1952年にカール・マイバッハは引退し、会社はダイムラー・ベンツ社の傘下に入った。
マイバッハエンジンは現在でもドイツの高級車に搭載され、そのDNAは脈々と生きている。
2002年ダイムラークライスラー社の高級ブランド名として、マイバッハの名を冠したベンツマイバッハが発売されている。
燃料輸送列車からドラム缶とジェリカンに燃料を移す作業を行っている。
東部戦線におけるドイツ軍の補給物資は膨大で、輸送は大変な労力を要した。
一個機甲師団の一日の燃料補給は約300トンが必要とされ、10日間の作戦行動のためには燃料だけで3.000トンが必要になる。
歩兵師団には一日70トンの燃料が割り当てられていたという。
バルバロッサ作戦開始時のドイツ軍は144個師団、350万の兵力(その内の17個が機甲師団)を有していた。
これらの部隊へ燃料、弾薬、食料、その他を毎日補給するのだからとてつもない労力だ。
補給物資は鉄道が通っている主要地点までは鉄道輸送され、後はトラックか馬による輸送となる。
ドイツとロシアでは鉄道軌間の規格が違うため、軌間変更作業が行われた。
ヨーロッパの標準軌(1,435mm)に対し、ソ連は広軌(1,524mm)を採用していた。
ドイツ軍は鹵獲したソ連の機関車を使うか、あるいは線路を一本ずつ内側に打ち直して標準軌に作り変える必要があった。
ドイツ軍は、ポーランド国境側から合計距離300マイル程度軌間改修しただけで、前線は遥か先であった。
更にソ連のパルチザンによる鉄道の破壊により、補給路は常に爆破工作に晒され、列車の運行は頻繁にストップしていた。
酷寒のロシアでは、ドイツ製の機関車はボイラーが凍結・破裂して動かなくなるトラブルが相次いだ。
このような困難な補給事情により、東部戦線では慢性的に物資が不足する状況が続いた。
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